今週のお題「母の日」
幼い頃から、そうですねえ、自分が母親になるくらいまでは、母に対して良い感情はなかったです。
今の社会的な感覚からいえば、虐待だろうなという躾けられ方をしてきましたので、特に幼い頃の母の記憶は嫌なものばかりです。
「何であそこまで、あの人は私に辛く当たる必要があったのか」
と、大人になっても時々、私は当時の記憶を思い出す事がありました。
母の生きてきた道を慮るようになったのはまだ、比較的最近のことです。
私の母は、かなり複雑で同情的な育ち方をしています。
おそらく、居場所がないままで大人になったのだろうと想像できます。他のきょうだいとの差別をされ、大切にされたという安心感も、もしかしたらないままだったかも知れない。
母が子供だった当時は戦後の混乱期からようやく抜けるかという時、子供の人権など無いに等しかった時代。
私が物心ついた時には既に、母の母(私の祖母)との確執が幼いなりに理解できました。
私が生まれたのは母が22の時でした。
私も長男を24で産んでいますが、今思うと、この年齢はまだまだ人間的に成長段階だと思います。
そんな中での子育ては、きっと必死だったろうなと。私を、人様に後ろ指を指されない人間にするため(=母親から文句のつけようのない人間にするため)に、さぞかし自分自身を追い詰めるものであったろうなと。
とかく、「母親というのはこうあるべき」という理想を誰しも持っているものと思います。
子供のことを第一に考えなければいけない。
感情的に怒ってはいけない。
子供の心を傷つけることをしてはいけない、言ってはいけない。
いつも穏やかで、優しくないといけない。
怒るのではなく、諭さなければいけない。
どんな時も何があっても、母親は子供を受け入れる事が出来なければいけない。
手本でなければいけない。
きょうだいは、平等に愛さなければならない。
子供を安心させてあげられる存在でなければいけない。
どんな時も味方でないといけない。
『母親たるもの、子供から見る母として完璧でなければいけない』
これは全て私が抱えていた「母親はこうあるべき」というものですが、裏を返せば「こうして欲しかった」というものでもあります。上に挙げたよりももっとあるはずです。
そして、母もこういったものを持っていたと思います。
今になって思います。
そんな母親なんて、どこにもいません。
いや、ひょっとしているのかな? わかりませんが。
母が私を産み、育て、貧しい中で仕事を持ちながら働きづめに働いて来たあの頃。
あの当時の母は、まだまだ若かった。
自分が同じ年齢の頃を考えても、その当時の母に、そんな完璧な母親像を要求しても不可能な事が今ならばわかります。
ましてや母は、母親からの愛情をおそらくは感じる事なく、心に大きな傷を抱えたまま、大人になっている。
自分自身がこの歳まで様々な経験をし、医療職という仕事柄、数多の人の人生を見てきたからかも知れない。
頑張ってきたのだなと。
辛かっただろうなと。
今になって母を、ひとりの人間として見る事が出来るようになりました。
母が存在しなければ私は「私として」ここに存在する事は出来ず、幼い頃からの様々な経験は、全て今の私をつくる上で何一つ余計なものはなかった。
今の自分がこうなのは、親のせい。
そうやって攻撃の対象を持つ事が必要な時期も確かにあるでしょう。
でも、ずっとそこにとどまっている事は、ずっとその状態のまま変わらないことも意味します。
親から受けた様々な傷。それすらも自分の一部として受け入れ、これからどう生きるかに目を向けるのか。
過去に目を向け、親のせいだとずっと親を攻撃し続けるのか。
それもまた選択です。
そして選ぶ自由は、この世に生きる全ての人に等しく与えられているもの。
その選択が、未来を創っていくのです。
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