先日の記事で書きましたが
「楽しいを拠り所に」
を、あんまりガチガチにとらえずに、ゆる〜っととらえてやっています。
それで、私は今、何をしたら『凪ぐ』かな?
という事をふと思うことが多くなりました。
ダントツでものすごい「凪」になるのがすぐに見つかりました。
私は今、長男と住んでいます。
一昨日、とてもとてもそうしたくなって、長男の食事中に後ろからそっと腕を回してみました。
「え、な、何?」
と、びっくりされましたが。そりゃそうだ(笑)
そのときにスラスラと出てきた言葉があるのです。
『お母さんは、●●が小さいときにもっとこうしたかった。でも、出来なかった。だから、今やりたいんだ』
ハグというには少し違うのですが(ご飯食べてる最中だったし)でも長男の温もりが伝わってきて、『あー、もっと早くこう出来てたら良かった』と。
今だからわかるんですが、子供達が小さい時、私は、男であらねばと(深層で)思いながらずっと何かと戦っていたんですよね。
男から母親になったのは、子供達が寝た後だけだったかもしれません。
先日、リワインドセラピーを受けながら何かが変化して、ずっと自分に禁じていた事をやってもいいように思ったんです。
で、やってみた。
そうする事が自分の『凪ぎ』になると、何となくわかったのです。小さい子にするように頭を撫でたりもしました。
はたから見たら「何このお母さん」かもしれませんがね(笑)
まあ、別に見てる人もいないし(笑)
念のため言っときますが、いくら自分がそれで救われるから、やりたいからと言って、他人(家族であっても)がそれを嫌がったらやるべきではないですからね。
それは、相手を無視した自分の価値観の押し付け、他人を自分と一体視している以外のなにものでもありません。
昔、子供を抱きしめるというそんな当たり前のことを、何故気の済むまでしなかったのかな。どうして「男として」戦わないといけなかったのかな。
その「何故」を紐解いていくと、やっぱりそこには深いものがあるのです。そしてそれがあるからこそ、同じような事を繰り返すんですね。
でも、もういいよね。
もうその怖さ、不安、少しずつ『解放してあげ』てもいいよね。
そう。「解放される」、だけではないのです。
解放されると同時に、「解放もしてあげる」という事なんだなと。
それと、不安や恐怖って、【あっちゃいけないもの】【無くさないといけないもの】じゃないんです。
不安も恐怖も、自分を守るためにずっと中に在ってくれたもの、だから。
それが無いと生きられない時期もあり、それがあったからこそ、危険な目に遭わないで済んだ時期もあった。
でも、今はもうそれ要らないよね、というものもあるのです。
『要らない! なんでそんなものがあるの!』
と、つい考えがちですが、もしかしたら不安や恐怖の方こそが、『もう私は役目を終えたから、解放されたい』と願っているのかもしれないなあと。
それを解放しないのは、他でも無い自分なのだとしたら。
解放せず、「そこにあり続けさせる」事で、きっと「何かしらの目的」を私は果たして来たのだろうなと。
長男の背中の温もりを感じながら、そんな事を考えていました。
…で。
そこまで進むことができると、エネルギーデトックスワークでの抜け方もまるで違ってきました。
私はこれまでにも結構抜いてきていますが、『これまでと違う感じのもの』が抜けるようになっています。
それを感じて、『ああ、ほんとは外に出してもらいたかったんだね』と思いました。
許可しないと抜けないというのが、よくわかりました。それも口先ばかり、形ばかりの「許可」でなく。
1dayセミナーでも言っていますが、【浅いところが抜けて初めて、深いところが抜ける】のです。
言葉で言うと簡単だけど、ほんとに、浅いのをまず抜かないと、深い深いところにあるものにまで到達出来ない、『深さ』があることすらわからないんだと実感します。
ただ、私の場合はもともと『違うところのもの』も抜ける人だったので(今はあえてそうならないように設定している←疲れるので)みんなが私と同じようにとはいかないですが。
でも、浅いのが抜けるからこそ深いのが抜けるのはみんな同じです。
個人セッションでも1dayセミナー(そしてセルフワーク)でも、不要なエネルギー抜きって大事です。
…て、こういう経験をしてしまうと、実は私は今はもう、『不要』なんて言い方はとても心苦しいんですよ。便宜上言いますけどね。
何故ならその不要なエネルギーだって、『自分が取り込むと決めて取り込んだ』とも言えるのだから。
だけどそれが溜まり続け不調を起こしてくるのであれば、やっぱり対処は必要なのです。
そう。これはこれ、それはそれなのです。
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