今現在歩いている、今ここにある道の先。
それは、いくつもに分かれていると私は思っています。
あるひとつの事に対して選択肢はいくつかあり、ひとつの選択をしたら、それ以外は切り捨てなきゃならないことも当然あります。
一方では、「何も選ばないでいること」もできるでしょう。
何も選ばずにいれば、いずれ周りの方が動いてくる。
ですがそこには、「もし選んでいたら進まずに済んでいた道」=いくつかの選択肢の中で『最も避けたかった道』、である可能性もありますね。だから、選択の前には迷いや悩み、苦悩があります。
例えば、「AかBか、どうしてもどちらかを選ばなければいけない」という分岐点に立ったとします。
でも、どちらも選べない(選ばない)とする。「Aを切り捨てて、Bを選べば、少なくともBは活かせた」はずが、どちらも選べなかった(選ばなかった)ために、周りの方が動き、「AもBも失うことになった」となる。
極端なことを言ったら、これが、『最も避けたかった道』になるかと思います。
極端なことを書きましたが、選択は、そのように大きなものばかりではありません。
更に重ねて極端なことを言えば、「家を出て右から行くか左から行くか」も選択になります。
人の人生は、そういった無数の選択の積み重ねが創っていると思っています。
子供の頃は、幼ければ幼いほど、大きな選択は出来ません。親の選択に乗ることで、幼子は生きることを選んでいると言えます。
ですが、ある程度年齢が行くと、自分で決めることが増えてきます。自分の行く末を自分で創れるようになってくるのですね。
一時期、アダルトチルドレンという言葉を聞く機会がとてもありました。
幼少期の親との確執で作られた傷が元で生きたいように生きられない、いつまでも苦しんでいる、という方の言葉も多く目にしてきました。
ですがそれが「今」だとすれば、この先をどうするのかは、やはり自分の選択なのです。
私のことを言うと、人生で大きな選択は「結婚」「離婚」「仕事をどうするか」でした。
結婚は実家から離れたいがために、元夫と出会ってすぐに決めました。義父に対して直感的に異様さを感じながらも、早く家から出ることを最優先にしての選択でした。
そして離婚では、その時点で既に難病を二つ持っており、定職があるとはいえ、子供の色々なこともあり、不安はかなりありましたが、自分の誇りと安らぎを最優先にして離婚を選択。
この離婚の時に、「離れたい」とあれほど思った親が、本当に本当に力になってくれたのだから、なんと皮肉なことだったか。
結婚離婚は、親との関係を織り直す意味においても重要なものだったのだと思います。
そして離婚後かなりの身体的な無理をして結果的に昇進したものの、別の難病を発症。一番上の立場から普通の1スタッフになるか、別のところに行くか、この仕事そのものを辞めて体を最優先にするかの選択を迫られました。筆舌に尽くせない苦悩をどうにか越えて、選択。
大きなものでは、そんなこんなの選択を重ねてきて今の私があります。
ひとつ言えるのは、選ばなかった道はどんなだったのだろうと思うことは時々あれど、今の私になったことには全く後悔が無い、という事です。
何故なら全て自分で選んできた、そうやって創ってきた私であり、人生だという思いがあるからです。
今の私、私の周りに存在する人々、私の周りの環境。全てが、私が選んできた末のもの。
そして、今この瞬間から、もう未来を創る選択は始まっているのです。
今、私がこのブログを書いているのもそう。
あなたが今、これを読んでいるのもそう。少なくとも「読もう」という選択、決断をしている。
もしかしたら、未来を創るひとつの選択として、これを読んでいるのかもしれないのです。
先の道は、これから創る。未来はこれから出来るのです。
ひとつひとつの選択と決断の上に。
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