自分の足元には既にいくつもの選択肢とそこから続く道が延びていて、その中から何を選ぶかによってどんな自分になっていくのかが決まるんだけど。
選ぶときに「何を拠り所にしているのか」ってのは、自分で思う以上に重大な事だし、
そもそも何を拠り所にして選んでいるのかという事には、気がつかない事が殆どじゃないかと思う。
「拠り所」と言ってしまうと難しいですが、つまりは「癖」です。それを基準にして物事を考え決めるという癖(それも相当根深い)があるという事です。
例えば私は、子供の頃から『不安』を基準にして物事を考え、何かを選んできました。
子供の頃には『親が死んでしまったらどうしよう』という不安。(→親が死んだら生きていけないから、子供としては当たり前の不安ですね)
長じてからも私には常に不安がありました。
「自分にとって楽しい事なのかどうか」ではなく、「こうなると困るから」「こうならないように」という基準で物事を考え、選択をしてきました。意識する事なく。
勿論、世の中には最悪の事態を想定して動く事が必要になることもあります。
でも、そうではなくて、どんな選択においても、私がそれを選ぶ基準としていたのは不安と恐怖が前提で、それを避けたい、というものであったという事。
不安がその通りにならないように。
恐怖がその通りにならないように。
そのために選択をしてきました。不安と恐怖が『当たり前にそこにある』というのが前提だったのです。
不安と恐怖がある事は当たり前。あまりにも当たり前だから、それに気づきもしなかった。
何も大きな選択ばかりではありません。
例えば先日の買い物。
なぜか、「こっちのミニトマトが食べたい」という強い体の声。
いつもなら、「同じミニトマトなら、安い方がお金を使わずに済む」=「貧しくなりたくない(不安と恐怖)」「貧しくならないために(貧しくなるのが前提)」「安い方を選ぶ(ほんとはこうしたい、という声を打ち消す)」
という選択を当たり前にしていました。
ああ、そこには、「節約出来てすごいね」「我慢出来て偉いね」と褒められたい、自分で満足したい、「なに無駄遣いしてんのと誰かから非難されたくない」というのもありましたね。
あとは…我慢が人として当たり前、耐えるのが人として当たり前という価値観。
誤解して欲しくないのは、実際お財布にお金が無く、明日暮らすお金もないのに、それでも高いものを買いましょうというのではありません。
そういうことではないんです。
与えられた範囲の中で、どこまで自分の望みや、楽しみを見ることができるのか、という事です。
私はもう習慣的に、自分の声を黙殺することに何の疑いも持たなかったどころか、気がつくことすらなかったという事なのです。
平穏、平安でいる事すら、自分に許していなかったと思います。私は、波乱万丈でいなければならない。
それは何故なのでしょう。
これには内観がいる事です。
こうして気がついたからには、書き出しをして行きますけどね。
今がどんな状態なのかというと、一気に色々な事が起こって背水の陣を敷かれ、こういう状態になってやっと内なる声に気がつく事ができた、という事です。
この半月、本当に本当に全てにおいてシンドかった。
なんとか気力でやり過ごしてきましたが、もう体が限界にきているのがわかった。
これまで普通に食べていたものが喉を通らなくなり、食べるものが無いところまで行って、やっと体の要求、自分の求めるものに耳を貸せるようになったという事です。
でも、ここまで自分を追い込む必要はなかったんです。元から自分の声を聞くことが出来ていたならね。
逆を言うと、ここまでならなければ自分の声を聞く事すら出来なかったという事です。
不安が前提、恐怖が前提の考えだから、目の前に現れるのは不安なこと、恐怖を感じることになる。
そしてそれに対処する。その繰り返し。
繰り返すほどに不安があることも恐怖があることも当たり前になり強化されて行く。意識なんて出来ない。
だって自分が「それが当たり前」という事を「選んでいる」わけだから。
じゃあ、どこで気がつくのか。
それが、まったくちがう価値観を持った人からの言葉だったり、テレビからふと聞こえてきた言葉だったり、夢だったり、映画だったり、本だったり。
だから学びって本当に大事だと思うのです。
「自分1人」で何かに気付こうとしても、無理です。
だからこそ他人がいるんですよね。
鏡なんです。
自分の色々な面を、色々な人を通して見せられるんです。
ただ、知識を単に知っているだけでは変わりません。それを行動に移さないと変わらないんです。
私の場合なら、「不安と恐怖を拠り所にするのではなく、何が楽しいのかを拠り所にする」という事。
大きな事でなくてもいい、例えば自動販売機で飲み物を買うときに何を選ぶのかみたいな小さなことでもいい。
自分が本当に望んでいるのか、楽しいと思えるのはなにか、ということです。
そういうところから、『不安や恐怖にフォーカスし続ける』から『自分が楽しいことにフォーカスする』に変えていけるのだと思います。
1つ1つ、積み重ねることなんです。
あなたの周りには、どんな人がいますか?
その人は、あなたの一部を写しているのかも知れません。その人は、自分がどんな癖を持っているのかを知るヒントなのかもしれません。
自分が変わることの出来るヒントを示しているのかもしれません。
あなたが楽しい(嬉しいではなく、楽しい)と思うことは何ですか?
好きなものはなんですか?
何も思い浮かばないですか?(私ははじめ、ホントに何も浮かばなかった)
音楽? 本? 旅行? 友達との語らい? お風呂? 寝ること?
少しでも「これかな」というものがあったら、それをやりましょうよ。
そして、じゃあ何故、それを楽しいと思えるのか? それのどんなところが楽しいのか? を、少し突っ込んで探ってみましょう。
例えば、私は不思議なくらいに『JIN-仁-』が好きで、今でも見ることが多いです。
見ていて不快なら見ませんよね。何か惹かれるものがあるから見るのです。
それってなんなのだろう、と考えたら、あのドラマに一貫して存在していた、
『今この時を選択し行動し生きることで、未来が変わる』
というところに、たまらなく惹かれるのだと。
つまり、『【今この時】をどう選択しどう生きるかで、未来は変えられる』ということを、私の本心が欲しているのだ、ということなんだなと。
もっというと、『不安、恐怖が当たり前に常にある【今ここ】から、行動と選択で未来を変えるのだ』ということを欲しているということなんだなと。
実はこれね。
圭子さんの『リワインドセラピー』を受けながらの会話の中で見えてきたことです。
(圭子さんは、当協会の認定セラピストさんでもあります)
体からのアプローチ(リワインドセラピー)が、こんなにも心(と、もっと深いところ)にも効くのだと思います。
全てが別個に存在するのではないんですよね。
それぞれが関連しあっているんです。
体、心、エネルギー。
平穏である事を自分に許可しよう。
「楽しい」を拠り所にしていこう、と思います。
追記)圭子さんのリワインドセラピーが終わった瞬間に、別の人の体みたいに軽くなっていました。本当に受けに行って良かったです。感謝です。
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