前にも書いたことがありますが、また書こうと思います。
私の行動の大もとには、多分これがあるんだなと思うのです。
情けは人の為ならず
どんな意味だと思いますか?
「情けをかけるのは人のためにならないから、かけない方が良い」
そう思っている人が多いかも知れません。
しかし、真の意味はそうではありません。
情けとは
ては、情けとはなんでしょう。字のごとく「情」です。
思いやり、優しさ、親切、手助け…上がればいくらでもあります。人の愛から発するもの、全てを示すと私は思います。
誰かに対して示した情、行動した情。
それは、誰かに「渡した情」です。差し上げた、といってもいい。自分の情を、誰かに差し上げたのです。そして、その誰かとは人とは限らない。
それはその場限りで終わるものだと思いますか?
私はそうはないと思っています。情は、物ではないからです。
ありがとうと感謝される時もされない時も
誰かに「渡した情」。
それは必ずしも「ありがとう」と、感謝されるものではありません。それでも、そこには情が存在していたはずです。
例えば電車の中で高齢の方に席を譲ろうとして断られたとき。
感謝されなくても、「この人に、安楽ていてほしい」という思い(これが情です)があったからこそ「どうぞ」と、席を立ったわけです。
あるいはその方のことが、親や祖父母と重なったのかも知れない。
「どうぞ」と言わなかったとしても同じ。そこには情があり、そのかたにお渡しした。
そこには情が存在して、情はめぐる
渡された情は、そこで消えるわけではないと思います。めぐるのだと、私は思っています。
誰かに、何かに示した情。
その情は消える事なく、感謝という目に見える形で自分に返ることはなくても、めぐる。
それは巡り巡って、もしかしたら私が亡き後に、私の大事な人たちに還ってくるかも知れない。
私はこの頃、そう思うようになりました。
私が誰かにあげた情は、今度は誰かから私の大事に人に還る。
だから、「情けは人の為ならず」なのです。
自分のためにですらない。きっとそれは、大切な人達のために。
自分の亡き後
人間ですから、誰もがいつまでも命があるわけじゃない。人の命がいつまでなのかは誰にもわからないのです。
助けてあげたい人たちがいても、自分の亡き後までは助けてあげることはできない。
みんなそうです。
もちろん、初めから人頼みで、やることもやらないのは論外です。
そうではなく、自分の力を越えることがあり、助けが必要になった時のことです。
大事な人に助けが必要な時があったら、そこには居ない自分ではなく、誰かに助けてもらうほかはない。自分の代わりに。
自分が渡した情が巡って、今度は誰かが、大切なひとに渡してくれる
考え方ひとつといえばそれまでです。
でも、昔から「情けは人の為ならず」という言葉があるということは、そういう事は確かにあるのだ、という事じゃないのかなと思うのです。
私は勝手にそう信じています。
情けは人の為ならず。
それは巡り巡って、大事な人達のために。
あなたの大切な人は誰ですか?
あなたは、自分亡き後、自分の代わりに誰に手を貸してあげてほしい、優しくしてあげて欲しい、親切にしてあげて欲しいと思いますか?
お子さんですか?
親御さんですか?
友達ですか?
恋人ですか?
職場の人ですか?
それとも、いつも見かける、名前も知らないけど優しそうなおばあさんですか?
あなたが誰かに今かける情は、その目の前の誰かだけではなく、未来を生きる大切な人にかけているのかも知れません。