昨日の記事
なぜこういうことを書いたのかというと。
発達障害、というのをご存知ですか。
私の大事な人には、発達障害があります。ボーダーではなく、成人してから診断を受けました。自閉症スペクトラムといいます。
発達障害は、昔と違って今は、広く一般に認知されるようになりました。
彼が幼かった頃にはまだ、発達障害というものは認知されていなかったと思います。
とは言え、広く認知されるようになった現在もなお、社会で、それを持った人の多くが生きにくさを味わっているのであろう事は、身近でずっと彼を見続け、共に苦しみ悩み続けてきた者としては、想像に難くありません。
私が紆余曲折の末、今のようにどうにか受容が出来るようになるまでには、とにかく世の中全てを恨みました。
彼を必要としない、受け入れてすらくれない、いじめの対象とし続け、まるで
「アンタの産んだ子は、育てた子は、誰にも必要とされない人間なんだよ」
とでも言われているようでした。
私は彼に笑って生きて欲しくて、そしてなんとか彼を世界に受け容れて欲しくて、それには彼に「人と同じ」になって欲しくて、人と同じであることを求め続けました。
それが、より彼を追い詰めていたのに、どこかでそれが分かっていたのに、「人と同じである事」だけが、そこから脱するためにはどうしても必要だと信じていました。
私が、あるがままの彼を受け容れることができないでいるというのに、一体何故赤の他人の誰が、それを受け容れることなど出来るでしょう。
その頃は、それを理解することが出来ませんでした。
どこに行っても受け容れられない。
過去も闇なら未来も闇。
ようやく闇からの抜け道が見えたのは、元夫との離婚後でした。
一人の教授の言葉。
『発達障害というものをご存知ですか。彼はその可能性が高い』
思ってもいないことでした。
当時、発達障害を診断できる医師はとても少なく、そのための外来も少なく、受診予約には何ヶ月と待ちました。結果、発達障害、自閉症スペクトラムと診断されました。
子供の頃から、なぜあれほどまでに「生きづらかった」のか。なぜ「普通」ではなかったのか、なれなかったのか。
ようやくそのわけがわかり、どこかで妙にホッとしたのを覚えています。
多くは先天性と言われる発達障害。
なぜ彼がそんなものを背負うことになったのか、私のせいなのか、という新しい悩みを抱えることにはなりましたが。
彼の希望により、診断は受けましたが、公的手帳は受けませんでした。生きにくい中で、定型発達者と同じように生きていく道を選んだのです。
当然、その後彼が辿った道は穏やかなものではありませんでした。
…長くなりました。
私が守りたいものは勿論彼の人生だけではありません。守りたいものは、人は、まだいます。
私がいなくなった後でも。
今、私から遠く離れたところにいる人たちも。
私には、守りたい人たちがいます。
だから今、私は私に出来る事、私にしか出来ないことをしている。
この情が巡って、時を超え場所を超え、きっと愛しい人たちの力になると信じているのです。
情もまた、人が発する「エネルギー」だから。
それは、「その人たちのために」ではなく、究極、「私のために」であるのかも知れませんが。