~~エネルギーデトックスワーク協会認定上級セラピスト・1dayセミナー講師 NAMIです~
スピ的要素のある話になりますので、苦手な方はお戻り下さい。
今回も書ける事だけ書いています。
少し前から引っかかっていた事がありました。
どこへ行っても、異口同音に
「優しい人」
という評価をされるということ。
はじめは「いやー、そんなことないよ、普通だよ」と思ったり答えたりしていました。
優しい人ねといわれて、嫌な気持ちになる事は多分ありませんよね。私もそう言われること自体は嬉しいです。
でも、段々と、なんか変だな…
と思うようになって来た。
言われる事そのものに対してじゃなく、
異口同音に必ずそう言われる自分という事に対して。
だって、普通なんですよ。
普通って何よ? という気もするんですが、
腹も立つし、怒る事もあるし、恨むこともあったし、自分としてはこの程度が至って普通の感覚と思っていました。
だけど、どこに行っても、誰が相手でも
「優しい人」
という評価が必ず来る。
「怒ることってないでしょう」
とまで言われる。
自分としては普通にやっている事に対してすら、「優しいねえ」といわれる。
極端な話、手を洗っているだけなのに「優しいね」と言われているかのような、不自然な感じです。
断言しますが、私は自分で自分のことを優しいと思う事はないんです。誰でも皆んなこんなもんでしょ、と思っている。
でもこの1年ほどで特に、
『なんか変な感じ』
と、妙な違和感を覚えるようになったんです。
滅多なことでは人を嫌いにならないということも、同じようになんか不自然だ…と思うようになりました。
不自然さを自分に感じるというのかな。無視出来るけど、気持ちが悪い。
その原因の片鱗が何となく見えた気がしたのが、
『私には、感じていい感情と感じるのを禁じた感情があるようだな』
『私は、いい人でいないといけないようだな』
『私は、怒ったり恨んだり自分を優先したりしてはいけないようだな』
というのに気がついたこと。自分のことなのに、妙に客観的に自分を見たという感じ。
怒ったり恨んだりする自分でなく、“綺麗な自分”でいないといけない。(←容姿が綺麗とかそういう意味ではなくて)
感じてはいけない感情は、蓋をして押し込めているのだと気がつくという事すら出来ないまでに、無い事にしている。
無いことにしているけど在るから、
それを『無いことにし続ける』ために
莫大なエネルギーを消費し続けている。
純粋に生きるために回すエネルギーすら、そのために消費し続ける。
そう言えば、『本音が全然出てこない』『見えない』とごく近い人から言われたこともありました。
そりゃそうです。
自分ですら本音や本心がわかっていない、感じていない、無いことになっているんですから。本音や本心があることすらわからない。
「わからない」というのは「存在そのものはわかっている」訳だから、私の場合はもう、無いのと同じなんですよ。
でも無いのではなくて在るから、無意識レベルでそれにあらゆること、思考、感じ方、行動etc.が引っ張られるんです。
別な話で、私には相当深いところに、戒律とも言える強烈な縛りがあることを知っていまして、今回、ああなるほどな、これがそれのほんのほんのほんの一部分なんだな、と繋がったのです。
今生がダメでも来世では!…などという話をする気は全然なく、今、“戒律”の片鱗の片鱗でもようやく捉えられた(のでは?)というのは多分、『私という存在』にとって結構大きなことだと思います。
少なくとも、「今生の私」にとっては。
これまで膨大な時間(膨大と表現するのは、今生だけの話ではないから)を良くも悪くも“戒律”に従って来たので、戒律のない、あってもより自由度の高い生き方を、今生で短い間でもぜひ経験してみたいものだと思います。
ようやく捕まえた片鱗の片鱗から、もう少し大きなところを掴めるといいんだけど、残りの時間でどこまで迫れるかなあ。
多分、これまでの私には到達できなかったところであり、片鱗から更に先を掴もうとすること自体が、私にはおそらく初めての経験。
どんな結果に繋がるか分からないけど、楽しみだわ。
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