はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
私の父は、鹿児島の種子島出身です。
宇宙センターのある、あの島です。
私が生まれてから種子島に行ったのは3回。もっとも、初めて行ったのは2歳でしたから記憶にありません。
次は9歳の夏休みでした。
この時は、ひとりで行ったのです。
それまで親から離れたことなどなく、いきなりの一人旅。大阪に伯父家族がいて、一人旅と言っても大阪から先は伯父家族と合流したのですが。
ただ、飛行機に乗るどころか、乗り物にひとりで乗ることも初めてだったので、とても不安だったですね。飛行機が落ちたらどうしようとか。
母がお守りを私の体に襷掛けにして付けてくれました。
飛行機の中では【空のひとり旅】という名札みたいなものを付けて、CAさんが隣に座ってくれて、子供向けのいくつかのオマケ(?)を貰いました。
大阪に着いて、初めて伯父家族との対面。私より一つ上の女の子のまゆみちゃん。いとこですね。
電車の中でまゆみちゃんと「りぼん」の「ミキとアップルパイ」を読みました。
その日の夜はホームシックで布団の中で泣いていたのを、伯母がそっと涙を拭いてくれたのを覚えています。
その伯父夫妻も、もう亡くなりました。
鹿児島から小さな飛行機で降り立った、初めて見る種子島。
見たことのないほどの美しい海に、心の底から驚きました。こんなに綺麗な海があるのかと。海の色がひとつではなく幾重にも違うものだと、初めて知りました。
あんなに綺麗な海を、生まれて初めて見たのです。
滞在先は大きな池のある大きな家。ここも親戚だったのでしょうが、どういう親戚だったのかよくわかりません←あとで聞いたけどよくわからなかったw
お風呂は五右衛門風呂でした。
食べ物なども多分、色々驚いたことがあったでしょうが、覚えていません。
一人暮らしの祖母の家にも行きました。
今はもう祖母の顔も覚えていないけれど、祖母が濃くてぬるいカルピスを湯呑みに出してくれたこと、そのあと子供たちと大人達と祖母とで外に出たのだけど、みんな歩くのが遅い祖母を置いてどんどん先にに行ってしまって、「どうしてもっとゆっくり歩いてあげないのだろう」と悲しくなりながら、何度も立ち止まっては祖母が追いつくのを待っていたこと、大人の事情を知らずに「うちにおいでよ」と祖母に言ったのを(一家4人、四畳半一間のアパート住まいなのに)鮮明に覚えています。
夜は海辺の花火大会にも行きました。
花火が綺麗だったかどうかは覚えていないのに、その帰り道に見上げた北斗七星が、なぜかとても怖かった。
祖父の法要で何時間も正座したけれど足が痺れなかったこと。
夜のオカルトもののテレビで、自殺した女性が「夜毎お母さんの枕元に立つけれど気が付いてもらえない」と霊媒師に憑依して泣いて訴えるのを(当時はそういう番組が多かった)、伯父や大人が「そんな親不孝な事をしておいて、今更何を言う」と怒っていたこと。
山道を登った先での早朝のラジオ体操に私も滞在中ずっと参加して、空気がとても気持ち良かったこと。
大人の手のひらほどの大きさの蜘蛛が怖くて、トイレ(外にあるんです!!!)に行けなかったこと。そのトイレも使い方に前と後ろがあって、逆に用を足していたこと。
はじめはホームシックで泣いていたのに、帰る時にはまだ帰りたくないと思ったこと。
色褪せない、小学3年生の夏の思い出。
…それにしても、当時の父の決断もすごいものだなと、自分が親になってから感心しましたね。
父は父で私に故郷を見せたかったのだろうし、当時の私に良かれと考えたのだろうと思います。
その後、5年生になってからも行きました(この時は家族みんなで)が、それが最後です。
父も伯父が生きている時は何年かに一度帰っていましたが、伯父や伯母が亡くなってからは行くこともなくなりました。
私は、もう一度あの綺麗な海を見たいと思うのですが、反面、きっとあの当時と同じ海は、もう見ることは出来ないだろうとも思うのです。
9歳の記憶の中で、いつまでも私の中にあり続ける海、在りし日の祖母、空気の匂い、潮の匂い、いとこ達、叔父や伯母。
父を育ててくれた島。
9歳の記憶のまま、それでいいと思っています。