◆重要◆カルマとか宿命とか運気とかスピとか言う前に、まずは現実世界です。 - Harmonize
前にも書いたことがあったかと思いますが、
↓この記事を書いている時に思ったこと。
別れ。一緒にいたいけど離れて行く、頑張っても交わらなくなる - Harmonize
出会うべき時に出会うべき人と出会っているとしたら
逆に言うと、
「出会うべき時でないと人は出会わないのだ」としたら。
「誰かに出会って、その人に対して何かの役割をする事を約束済みで、同じ時代に生まれ合わせている」
としたら。
「色んな糸が絡んだり解けたり切れたり繋がったりして、それらから学びを得た後でないと出会わないよ、とお互いに決めてきた人がいる」としたら。
それが自分にとって好い悪いは別にして、人の出会いや縁というのは、人が想像してわかる類のものではないんだろうな、と思います。
こう思うのもまた、私が私につながる高次から得たことと私自身が感じ取ったことが合わさって出てきた事で、これが正しいとか間違っているとかいうことではないのですけどね。別の高次は別のことを言うかもしれません。
とりあえず私が、『あくまで現世的な観点から』という前提で教えられたことです。
- 出会うべき時に出会うべき人と出会っているとしたら
- 自分を必要としている人はいつどこにいるのか、いつどこに現れるのかわからない
- 私を私たらしめる全てのもの
- 身の周りの全てが今の自分を作っている
- 自分のも人のも、命や人生を大事に
自分を必要としている人はいつどこにいるのか、いつどこに現れるのかわからない
恐らく誰にとっても確かなのは、その時のその人にとって、最も必要な人がそこに存在している、ということなのだと思います。
それは、繰り返しになりますが、好い悪いは関係なくです。
そして、いつ誰が自分にとって必要な人として存在するようになるのかもわからないし、自分が誰かにとっていつどこで存在するようになるのかもわからないのです。
更には全く自覚なく、大きなきっかけを与えていることもあります。
自分も人も区別なく命や人生を大事にした方がいいのは、そういう事からです。
例えば、絶たれた命は、その何年後かに誰かと出会って、その誰かにたった一言何かを言う予定になっていたのかもしれない。そしてそのたった一言は、その誰かの人生を大きく変えるきっかけになる予定だったのかもしれない。
そしてその誰かは、その一言があったおかげで、繋がる道の先で誰かと家族を持ち、新しい命が授かることになっていたのかもしれない。
命を絶つというのは、その繋がる道を、その先に繋がる全てを、そこで絶ってしまうという事になるのです。
だから昔から、「殺すなかれ」と言われますね。それは他人ばかりではなく、自分もなのです。
実際はそんな感傷的なものではない
ちなみに、実は高次の感覚からしたらこの辺りはそんなセンチメンタルなものではなくて、驚くほど割り切ったというか、サバサバした感覚のようなんですね。
あくまで私というフィルター(翻訳機)を通しているので、こういう表現になっています。
でもこういう事は多分、共通意識下ではみんな似たような感覚を持っているのではないかと思うのですよ。
「生命の維持」というのは、生命体の本能でもありますから。
あ、話が少しそれました。
私を私たらしめる全てのもの
「自分の体は自分が食べたもので出来ている」とは、よく言われます。
それと同じで、「今の自分そのもの」を作っているのは、「自分を取り巻く全て」とも言えます。
「私」そのものを作っているというより、「私を私たらしめている」という方がよりしっくり来るかな。
周りの環境、周りの情報、周りの人、食べ物、空気、天気、言葉、匂い、音、感触、喜び、悲しみ、怒り、妬み…書ききれないほどの沢山の、「周りにあるもの」たち。
それを感じ、取り込み、吸収し、考え、時に拒絶し、時に喜び、悲しみ、表現し、生きている。
「私が私であるように、私として、生きている」私たち。
身の周りの全てが今の自分を作っている
そう考えると、昔の歌の歌詞にありましたが、
今の自分を形作るのに「余計なものはない」と思えるんですよね。
全てが「自分を自分たらしめている」と思ったら、色々なものを見る目が変わりませんか?
元夫の裏切りも私をつくる一部
例えば私のことを言うと、あの元夫の不倫相手ですら、あの元夫の酷い裏切りですら、いまの私をつくる一部分となっているのです。でも一部であって、全てでは無いのです。
あれがあったから今の私があるなどと、綺麗な言い方をするつもりはさらさらありません。
(実際はその通りではありますが)
ただ、「あれも私の一部」であるという、それ以上でもそれ以下でもないのです。
それに感謝が出来るならばすれば良し、できなくてもそれで良し。
ただ、「今の自分を作る一部」である事に変わりはないという、それだけです。
選ばなかった先の未来
あれがなかったら、今の私とは別の私になっていたはずで、その方が良かったのか悪かったのか、今の私にはわかりません。まさにそれは、「選ばなかった道の先の未来を生きる私」ですから、そっちを選んだ私にしかわからない事なのです。
ただ、今の私は「私自身の数多の選択の末に出来上がった私」であって、私は今の私になった事に全く後悔はないのです。
自分のも人のも、命や人生を大事に
人には無数の選択肢や無数の未来があります。
その時々で必要な人もおそらくは決まっています。
そう思えば、生まれている以上、「価値がない」という人なんて、いないのではないかなと思うのですよ。