偶然見つけてしまったこのニュース。
ほんのさわりを読んだだけで、読み進めることは出来なかった。それでも、瞬時にあの頃に引き戻された。
「遼太と、わたしだけが止まっている」川崎中1殺害から4年、母親が初めて語った葛藤(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース
◆以下はあくまでも私個人の意見です。これを他の人に強制する意図は全くありません。少年犯罪について思うことを書いていますが、他者と議論する気も毛頭ありませんのでご了承下さい◆
私は、このニュースが報じられたあの当時、心の底から被害者の子が哀れでならず、犯人が許せなかった。
こんなことをして何故生きていられるのか。
人として何故こんな事ができるのか。
どう育てたらこんな事が出来る人間になるのか。
過去の女子高生コンクリート詰め殺人事件もそう。サカキバラ事件もそう。
未成年だからと、子供だからと、許されて良いことなのか。
人として欠くことの出来ない何かが欠落しているとしか思えない人間に、更生という概念は当てはまるのか。その更生プログラムで、人として欠いてはならない「何か」は、果たして育つものなのか。いや、生まれるものなのか。
こういう事件が起こると必ず言われるのが加害者の人権。そして加害者が加害者になる背景には、生育環境において同情するものが少なからずはあるとか、少年には更生の可能性があるというもの。
確かにそうだ。
子供は未知数。それこそが、まだ未発達の部分が沢山残されている子供の可能性なのだから。事実、殺人ではないが、罪を犯して更生した人も知っている。
でも。
酷い環境に育っても人を殺さない子の方が圧倒的に多いのは何故?
むしろ人の痛みがわかる子すらいるのは何故?
生育環境に同情すべき点があるという人は、酷い環境に育つことは人を殺す免罪符になるとでも言うのだろうか?
自分の子や孫が未成年者に殺されても、同じことを言えるのだろうか?
どちらにしろ、それは被害者が死をもって負うべき責任でもなんでもない。加害者の生育上の問題は、被害者には何の責任もない筈だ。
一方的にいたぶられた末に命を奪われ、どれほどの恐怖だった事か、痛かった事か、そして、どれほどに、どれほどに、どれほどに家に帰りたかった事か!
たった13歳の子に、殺される正当な理由などあろうか?
落ち度などあろうか?責任などあろうか?
落ち度も責任もあるというなら、それは命で贖わなければならないようなものなのか?
否、と言うほかない。
それまでにも酷い事件は数多起こっていた。
そして子供の頃から、私は『シンクロ』してしまうことが多いことは自覚もしていた。
それでも何故かあの事件だけは特に辛くて、まるで自分の子が殺されたような錯覚にいつまでも囚われた事をよく覚えている。
辛くて辛くてどうにもならなくて、だからあのニュースだけは、意図的に見るのも聞くのも避けてきた。今もなお。
赤の他人のことを自分のことのように感じるそのリアルさに、自分はどこかおかしいのだろうかとも感じた。
それがずっと後になって、精神世界に目が向くきっかけの一つになった事は否めない。
こういうネガティブな感情を持つというのが自分にとってどういうことかは、充分にわかっている。それでも、許せない事がある。自分とは何の関わりもない人の事でも、どうにも忘れられない事がある。
そしてそれが人たる所以なのだとも思う。
人の生死は、人の理解をはるかに超えたところにあり、特に死については、人の感情では到底納得がいかない事も多々あることは、高次の事情がわかるに従い、頭では理解できるようにはなった。
でも私は人として生きている以上は、人としての感じ方をこれからもしていくだろう。
そのギャップにどう折り合いをつけていくのか、あるいはつけなくても良いのものなのか。
もっとも、あの事件ほど強烈なシンクロを起こすことは、恐らくもう無いだろう。
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