本当に幼い頃は、やりたい事をやっていたように思います。
それが、だんだんと周囲からそれではダメだ、こうやりなさい、この方が苦労しない、失敗しない、危なくない、と教えられるようになる。
そのダメの基準は、親が持っている基準であり、学校が持っている基準であり、社会が持っている基準であり。
親の基準は私も子育て中はそうでしたが、「命を守るための安全」が最優先です。
でも子供の方には、なぜダメなのかの理由よりも「ダメ」という事そのものが入るのだろうなと思います。
だから大人になっても、いくつになっても、誰かに「それでいいよ」と言ってもらえないと落ち着かなくなります。
目上の者から良い評価を与えられないと不安になります。
失敗したくないから、自身で責任を負いたくないから、誰かに決めさせて、その決定に乗るのが一番楽だと学習します。
でも乗ったその結果が自分の思うようなものでなければ、決定した人を攻撃することもある。
それって自分の人生の舵を自分以外の人に預けている事だよね…と思います。
でもその一方で、こうやりなさい、こうしてはダメ、この方が安全なのだから…と教え込む事が必要だったのでは、と思うケースもありました。
詳しいことは書けませんが、そうする事が出来ていたら、そしてその価値観を深く植え付ける事が出来ていたら、もしかしたらその人は別の未来に行く事が出来たのではないか、というものです。
人が生まれ持ってきた数字を展開してみると、そして実際にどんな事が起きていたのかを照らし合わせてみると、ゾッとするほどの整合性が見られる事が多々あり、人の数字を読むことが恐ろしくなる事があります。
(それで一時期私は、人の数字が怖くて読めなくなりました)
生まれ日というのは、他でもないその人自身が、今生の目的を達する為に選んで来ています。
その中でどの数がその人にとっての吉数になるのか、凶数になるのか、そして後天的に与えられた名前がどういう影響をもたらすのか、人によって違ってきます。
ある数が特に重なって弱点になっている時は、巡ってくる年月日によっては、注意した方がいいこともあります。
ですがこの頃思うのは、その時をどうにかやり過ごしても、やはりその人が決めてきたように人生は進んでいくものなのかもしれない、という事です。(その人にとっての『学び』がそのままになるので、後で別の形で同じような事に遭遇する可能性ということ)
先の話に戻ると、ガチガチに価値観を固めて、いっときある危険から遠ざける事が出来たとしても、それはもしかしたら、本人(の本体)にとっては、ものすごい邪魔をしただけなのかも知れないとも思います。
必要な事が必要な時に起こる。
それもまた、その人が何かの目的があって(当然生まれたあとは覚えていないけれど)計画して来ているのだとしたら。
それでも、目の前で苦しんでいる人がいれば、手を差し伸べずにいることは、普通は難しいものです。
もしかしたら、「手を差し伸べられる事」それ自体もまた、その人の初めの計画にある事なのかも知れませんが。
(もっと言うと、『ここで私を助けてね』的なことも、予め約束してくるのかも知れません)
非常にぼかした書き方になりましたが、数字を読むと、時にこういう気持ちになることがあります。
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