◆エネルギーデトックスワーク協会
認定上級セラピスト・1dayセミナー講師
NAMIです◆
小学2年生の頃、幼稚園児の弟が死にかけました。
弟の病気は、開業医の診断・治療・病状の判断に誤りがあったために、腎不全手前になりました。
当時の医療水準は現在のように高くはなく、患者側が医師に対して疑問を抱くこと(おかしいと感じながらも、先生がそう言うのだから大丈夫なのだと、無理に信じようとする)も、あり得ないといった、盲目的なところがありました。
あのヤンチャで元気な弟が、まるで転げ落ちるように、日に日に急速に弱って行く姿は恐ろしく、そして不安で、でもそれを親に確かめることも出来ず(親自身が不安に耐えているのがよくわかったから)にいました。
程なくして、これはおかしい、このままでは危ないのではないかと恐怖に突き動かされた母は、「大丈夫」という開業医にようやく見切りをつけ、総合病院の小児科に駆け込みました。
弟は、『あと半日遅かったら助からなかった。間に合ってよかった』と言われる状態になっていました。
もしもそのタイムリミットを過ぎていたら、私たち家族は、それを受け入れるより他は無かった。
当時の私には人の生死は神の領域で、人の意思や手でどうこうできるものではありませんでした。
そんな強烈な体験から、子供心に『無知では(身近な人の)命を守れない』と強く思ったのが、私が医療従事者を志した理由です。
こういう仕事をしていると、『おそらく医療に関わっていなければ感じなくて済んだであろう疑問』を感じることがあります。
私にはそれが、長年にわたってひとつあります。
これはその人の死生観や価値観によって全く違って感じるものです。
だから、何が正しく何が間違っているというものではない。私と違う考えを否定する気もない。
ただ、ここにそれを書くことは差し控えたいと思います。
ずっと、どこか変じゃないか、と感じてきたこと。
それが、奇しくもこの数ヶ月で急激にクローズアップされてきているように思うのです。
少なくとも私がこの仕事に就いてから去年までは、ここまで表に出てきたことは無かった。
とは言っても、私のような価値観を持つ人でないと、私が何の事を言っているのかは多分分からないと思うし、気がつくこともないとは思います。
ひとつの疑問を持ちながら一言も口にせず、かと言って否定するわけでもなく、こういう側面もあるのだと理解しながら長年この仕事をしてきました。
まあ、それはどんな仕事でもそうですよね。
やればやるだけ考えることは増えますから、疑問が出てきても不思議じゃない。
ただね、それを疑問に思う事自体が、ある意味タブーだと思っていたのです。事実、きっとタブーだったのだろうと思います。
そこに目を向けてはいけないのだと。
そこは見ない、考えないでやらなければ、自分がキツくなると。
それに、前述のように、何が正しく何が間違っているのかというのは、人それぞれの考え方に委ねられることで、そもそも正解は無いのだから。
これまでの数ヶ月、さらにここから先、どれだけの年月を要するのかわかりませんが、このコロナ禍を抜けた先には、おそらく、医療にはこれまでとは違った価値観が生まれているのではないかと思います。
そのとき私は、まだこの仕事をしているのだろうか? という気がしています。
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