現在『終わり』をやるところにいるので、それに伴って当然ですが『別れ』もやっています。
文字通り、次から次です。
出来事の大きさと考えられないタイミングの良さに、しばらく前まで、上が段取っている、「上からさせられている」と思っていましたが、違うんですよね。
ようやく思えるようになりました。
上が段取るにしても、それは私が望んだからでもあるのです。というか、私が望まなかったら、私の上は調整なんてしたくても出来ません。
しかもこれ程の大掛かりなこと。
させられているのではなくて、これは自分がやってる事なんだなと。
「誰がやってるんだ? …私か!!」
なんです。
させられている、と言うのは、自分の人生の責任を自分以外の誰か(高次含め)に負わせているということ。
自分で責任を負いたくないから。
その方が、上手くいかなかった時の言い訳が立つから。自分のせいではない、と逃げることが出来るら。
「終わり」をやっていると、その終わりの次が来ますが、その過程で
「このまま、ここに留まった方が安心だよ、安全だよ、ラクだよ、一緒にいようよ」
みたいなことも、結構な頻度で起きてきます。
自分が選ぼうとしていることに対してのネガティブな情報、しかも、もっともらしい情報を外から入れられるんですね。
何故か。
不安を煽るためにです。
(実は、私が持っている数字的にも、不安を何倍にも育てる傾向があります)
動くことが不安→動くのやめよう→このまま変わらないでいいや→めでたくなにも変わらない→不安解消
と進んでいきます。
これに乗ったら、きっともう2度と、今来ている大きな(変化の)波はやって来ないでしょう。
…そんな「引き止め工作」を、それでも不安に抗ってひとつずつ切っていくと、今度はより親しい人からそういう情報を入れられます。
『そっちの道に行くとこうなるよ、だからここにいた方がいいよ。一緒にここにいよう』
前の私だったら、そういう情報を入れてくる人に対して、あるいは腹を立てたかも知れません。
でも、今は幸いなことに腹は立ちません。
『そうか、それが私の潜在意識が感じている恐れか』
『これがわたしが持っていた先入観=思い込みか』
ということを、今の私は考えることが出来るからです。
そして、心に引っかかれば引っかかるほど(つまり不快であればあるほど)、その「人の言葉」=「自分の外側からの情報」は、自分の深い深いところの本音でもあるんです。
人の口を借りて、聞いているんですね。自分の深いところの声を。
そして教えているんです。「本当はこう思っているんだよ」と。
自分の人生ですからね。人任せにせずに、自分で責任を取るのです。
それは覚悟ともいうのでしょう。責任を負うのは怖いから、そこには必然的に覚悟が生まれて来ます。
これまで現界的な、仕事その他での責任は嫌という程負って来たけれど、自らの人生の責任を負うというのは、比較にならないほどに怖い事です。
でも、誰のものでもない自分の人生の責任ですから。自分で負うのは当然なんですよね。
人になんとかしてもらうのではない、自分でなんとかするんです。
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