共感性、感受性が強く、傷つきやすい人たちへ - Harmonize
世の中の情報。
それはテレビの向こうの世界に限らず、一人一人の日常に存在することでもあります。
ある1つのこと、『A』というのがあったとして、それをみていた人の全てがその後同じ行動をとるわけではありませんね。
例えば、テレビで『A』というニュースが流れたとして。その『A』がめっちゃポジティブで、観る人の心を感動させ、明るくする事だったりしたら、
●「いいなあ、いい話を聞いた(見た)な」で満足し、でもすぐ忘れて、またいつもの生活に戻っていくという人もいれば
●「いいなあ、いい話を見たな。私もあんな気持ちになったみたいな」
と言って、身の回りに幸せの種を見つけようとする人もいて。
●「いいなあ、いい話を聞いた(見た)な。でも私にはあんなもの持ってない。どうしたら持てるのかな」と、持つために動き出す人もいる。(動きの大小は関係無く)
●「いいなあ、いい話を聞いた(見た)な。よし、私も出来ることで何かやってみよう!!」
と積極的に未来にフォーカスする人も。
●「いい話だけど、所詮はあんなの、ひと握りのごくごく一部のラッキーな人だけの話だよ。自分には関係ない、だって私は○○だから」
と目(未来)を閉ざす人だっている。
ざっと大雑把に考えるだけでも、こういった違いは人によってありますよね。
そしてそれこそが、人の進む道を決めていく基本的なところでもあると思っています。
きっと、どれが正解とか不正解とかは無いです。
なぜなら、どういう生き方をするのか、つまりはどういう選択をするのかは、等しくその人に与えられている自由なので。
だけどもし、自分を感動させ、誰かの心を明るくする事に遭遇したら、「自分も自分の出来ることであの人が味わったような感激や感動、喜びを味わってみたいものだな」と思う方が建設的かなとは思います。
要するに、「私もこうなりたいな」と思うという事です。
こんな風に難しい言い方をするとピンとこないですが、要するに「あの人のようになれたらいいな」というのは、誰でも一度は思ったことがあるのではないでしょうか。
同じ『A』という出来事を与えられても、そこからどう進んでいくのかは全く違います。
スタート地点で、得ているのは皆同じものでも(ここではテレビで『A』というものをみた、という事)、どう捉えるか、どう行動するかによって、一人一人で雲泥の差が出るという事です。
だったら、小さな行動からやってみた方が良くないですかね。