突然ですが、
↓新しいテレビボードの端っこ。
ああもう、ツヤがあって綺麗な白で
メッチャテンション上がるううう。
どーしよーかなと思いながらも(これまでは白なんて間違っても選ばなかった←汚れが目立つから)やけに惹かれて、白にしてよかったーーー。
みてるだけでホント満たされるわ。妙ーーーに。
やっぱりアレね、『まあいいか』とか『無難に』とかはもうやめようと激しく思いました。
自分が本当に好きなものに囲まれた暮らしって、心地良いんだろうなあ。
まだまだその環境にはいけないけど、そういうのっていいだろうなあ。
どんな事でも「我慢が当然」で、ずーーーっと、ほとんど歳の数だけ来たのです。
何するのでも我慢が基本で、それが当たり前のことだったので、まず何においても何するのでも、前提に我慢があったのね。もれなく。
ある時から、
『いや、それってなんか変じゃないか? なんで耐えることや我慢する事があって当然の事、あって当たり前のことなんだ?』
と思うようになったわけですが。
何をするのでも『耐えること』『我慢すること』が前提で当たり前って、変ですよね、よく考えたら。
つまりは、耐えなきゃならない事に身を置くのが私にはルーチン化してた訳ですよ。
で、それに全く気が付きもしなかったって事もまた、変な話ですよねー。
まあ、自分にとっての当たり前だったので。
無意識レベルでの当たり前だから、自力だけでは気がつくわけが無いんです。
私もそれに気がついたのは、実は今年の夏でした。
平均寿命から単純に考えても既に人生の折り返し地点を過ぎていて、そういう生き方を続けるのはあまりに残りの時間が惜しい。
もういい加減やめたい、やめようと一歩前に出たら、それを待っていたかの如く、まるで人生初の怒涛の波が来たんですけどね。
もう少し早く(もう少し若いうちに)気が付いて前に出ていたら、もう少し緩い波で済んでいたのかも知れない。
でも結果良ければ全て良しと思っているので。
当たり前って、気が付かなくて、無意識にそれを基に動いてしまう、考えてしまうだけに、ホント怖いわと思いますが。
ただ、その『当たり前』も、自分次第で、使いようではあるんですけどねー。
その転換が、なかなか簡単にはいかない。
…って、こういうの(簡単には転換出来ない=転換には苦労を要する)も自分の中の『設定』だろうなあ。
一体どれだけの、苦労・我慢設定を持っているのだろうか、私は。
…と思います。
そんなわけで、まだ怒涛の波乗りの途中。
でも多分、1番キツイところは越えたかな? …という感覚はありますね。
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