執着は身を滅ぼすと何処かで聞いた気がします。
私はこれまで、(表向き)自分には執着心は無い方だと思っていました。
ここ数日の(正確にはこの流れが始まったのは春頃からだと思う)動きは本当に激動という他はなく、単にやる事が激増するだけではなく、
本当に、本当に執着を取る、ということばかりをするようになっています。
職場。
住み慣れた家。
息子たち。
私の、それらへの執着を一度に取らなければいけないのが今です。
私は、ある人に大事なものを無理やり手放させました。ここまでする私は、まるで鬼だとも思いました。
そして、人に「大事なものを捨てさせる」ということで大きな痛みを与えたからには、自分は何も捨てません、というわけにはいかないのです。
思えばこの痛みは、私のみが経験しているものでなく、さらに親の代、そして恐らくはさらにその上の親の代から脈々と受け継がれてきた事のように思います。
因果応報というにはあまりにも悲しく寂しい、強固な鎖。
でもここでそれを断つことになるのなら、息子たちがこれを引き継がずに済むのなら。
今はその一念だけで、事に当たっています。
何度も涙に咽びながら、
大きな執着を断とうとしています。
そんな中、上からの後押しが現象として、ものすごいタイミングの良さで、まるで紙一重の救いのように起きる事で、なんとか進もう、と思う事ができています。
変わらない方が楽です。
そして、安心です。安らかです。
変わらなければ何も怖く無い、なにも寂しく無い、なにも悲しく無い。なにも変わらない。
でも一方で、その安心や安らかは、長く続かないことが分かっている。
何年かした時、「ああ、やっぱりあの時、『やる』と、『何が何でもやる』と決断するのだった」と大きく後悔する事がもう分かっているのです。
だから、やる他はないのです。
毎度毎度詳しいことを書かずに、読んでいるかたには「何のこっちや」ですねー、すみません。
一歩もいかなくても、半歩でもいい、1センチでも1ミリでもいい。
三歩進んで二歩下がっても。
未来のために。
これがきっと、私のみならず、息子たちや他の人たちの未来を、別の形で拓くのだと、そう信じて。
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