~~エネルギーデトックスワーク協会認定上級セラピスト・1dayセミナー講師 NAMIです~~
少し(だいぶ?)スピ的な話になりますが、
こういう時代を選んで生まれてきたのは自分自身なのだと思っています。
「この人生ではこうしよう」と決めてきたのも自分。寿命も自分で決めてきているはず…ただ、それが全くわからない状態になって生まれてきているので、人生は色々大変なんですよね。
「私がやろうと決めてきたことはこれだ!」
というのがはじめからわかっていたら、ホント楽だったろうなーと思います。
でも、例えば「自分の寿命はここまで」とかがわかってしまうとかなりキツいと思うので、やっぱり何も分からない状態でいるのは必要なんでしょうね。
自分が今生でやろうとしていることが、必ずしも「道徳的、常識的に良いとされている事とは限らない」…というのもあるし。
「何をしようと決めてきたのか」はわからないようになっていますが、だからこそやりたいなと思うことは、色んな面でやれるんだったらサッサとやってしまった方がいい。
本当はやってみたいんだけど…と思いながら我慢しているうちに、次にしようと延ばしているうちに、その機会が永遠に失われてしまうことも起こるのが今です。
我慢すること、耐えること、自己を犠牲にすること、人ばかり優先すること、自分なんて最後でいいと本気で思っていること…
本当はこうしたいという自分の本心に蓋をして本心を押し込み続けるのには、大きなエネルギーが要ります。
義務とか。責任とか。
人として、とか。
「そんな事考えちゃいけないんだ」とか、
「そうするのが当たり前なんだ」とか。
実は自分の奥の方で、他ならぬ自分が「これはもう無理」と感じていたり、或いは「それはなんか違うんじゃないか」と自分に疑問を持っていても。
そういうものほど、押し込み続けるには膨大なエネルギーが必要で、そうすることによる消耗は相当なものになるのです。
これを何年も何十年もやってきたら。
今生で本来やれたはずのことを、それとは気付くことも出来ずに、やらずに『時間切れ』になることもあるでしょう。
時間切れになっても、『次』がある、という考えも確かにありますけどね。ただ、本当にその『次』はあるのかどうかはわかりませんし。
自分のことはいいから。と考えてしまう人がいます。かつての私もです。自分よりも他人が優先、自分は1番最後、と本気で考えていましたし、そう行動してもいました。本当に何でも、自分が最後、が当然だったんです。
それって、本当にそうだったからなのかな、と思います。
そうすることで褒められたいからではなかったか? 認めて欲しいからではなかったか?
褒められることでしか、認められる事でしか、自分の存在する意味を感じる事が出来ないからではなかったか。
こうして書いていても、グサグサ刺さります(笑)
その通りでしたからねー。
でも、人は、自分の責任しか取れないんです。
自分がしっかと立てずに、なぜ人を支える事が出来るでしょう。(物理的に足で立てとか、そういうことを言っているのではありませんよ)
助けるのではなく、救うのではなく、単にそういうことに依存しているだけという可能性。
人に依存することを、人のためと言い換えている可能性。
自分にとって心地よいように都合良く変換している可能性。
大袈裟に「救う」という言い方をすれば、人を救うには、『救って欲しい人の業』を被ってもなお、シャンと立ち続けられなければなりません。
でないと共倒れになるどころか、もっと悲惨なことにもなります。
良かれと思ってやったことが、別の次元では凄まじい邪魔をしていた、なんて事もありえます。
人の責任は、そもそも取れるものではないんですね。
取れるのは、自分の責任だけなのです。
色々書きたい事がありますが、そして書ければさぞスッキリするとも思いますが…なかなかそれが難しい時期です💧
多分この先、ますます色々なことが書けないのだろうなあ。
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