『あの子は今年いくつになるのだろう。
あの人は今年何歳になるのだろう。
もしも、生きていたなら…』
長い看護師人生の中で出会った人々の中には、
そう思う人たち、忘れられない人たちが少なからずいます。
まだ学生の時に出会ったその子は、生きていたら40歳を越える頃です。
当時まだ小学校に入ったばかりだった男の子は、痛い検査に泣きながら耐え、化学療法にも手術にも耐え。
私が受け持ったのはそのあと、落ち着いた状態の時でした。
状態が落ち着いていても、逃れられない定期的な検査を、泣きながら、それでも動くまいと耐えていた、あの時の声と、私の腕に伝わった緊張、その身体の小ささを今でも思い出します。
たった7歳の子が、大人を気遣うことまでしていました。
辛いはずなのに、どんなに家に帰りたかっただろうに、それでも笑ってくれたあの子の顔を思い出します。
笑い声を、あの笑顔を。
40代の男性がいました。
受け持ちになったのは、その方が悪性の病気である診断がつき、それも楽観できないものである事がはっきりとしたさなかのことでした。
実習に出て、初めて受け持った方でした。まだ看護の「か」も満足に出来なかった頃。
私にいろいろな事を話してくれ、『患者の想い』というものを教えてくれたかたでした。
私に看護師としてのあり方、方向性を示してくれたのは、紛れもなくあの方であったと思っています。
おそらくあの方との出会いがなかったら、私は今とは違う看護師になっていたでしょう。
そのかたは、実習が終わるお別れの挨拶をした私に
「この先、いつかベテランになっても今の気持ちを忘れないで。いつまでもそのままでいてください。
立派にならなくてもいい、人の痛みのわかる看護婦(当時は看護師でなく、看護婦でした)さんになって下さい」
と、強く強く私の手を握ってくれました。
当時は予後の告知は今のように一般的ではなく、その方にも知らされていませんでした。
ですが、ご自分の運命を感じていたのだろうと思います。
不思議ですね。
あれからもう随分と年月が経つというのに、
あの手の力も声も、鮮やかに思い出せるのです。
いつのまにか、私はその方の歳を追い越していました。
他にも沢山の方の人生に関わり続け、生き様と死に様を見せて頂きながら生きてきました。
私は今、あの子たちの、あの人たちの、のぞみであったであろう時間を生きているんだと思うのです。
あの人たちが生きる事ができなかった時間を、年齢を、私は今生きている。
息を吸い、言葉を話し、景色や愛しい人々の顔を見、愛しい人々の声を聞き、ものを食べ。
快のみでなく、不快な事も、不快な感情も。
そういった、生きていれば当たり前である全てを。
この当たり前の事を、どれだけあの人たちは願っただろうと。
だから立派に生きよう、なんていうことではありません。
ただ、何でもない事がすでに幸せな事なんだと。ここに既にあるものなんだと。
あの子やあの人が生きた証が、こんなに年月が経ってもなお、私の中にあるのです。
私はどうだろう?
私が去った後、誰かの中に、私が生きた証を残せるのだろうか?
そんな事を思います。