あなたはいつまでストレスの種を育て続けますか? - Harmonize
むかしむかし。本当に昔の話です。
かなり幼い頃、日本がまだ貧しかった時代、私は一家4人で四畳半一間のアパートに住んでいました。
やっと一口のコンロがあるだけ、洗い場に小さな桶をひとつ置いたら他には何も置けない質素な台所。
玄関、トイレ、風呂は共用で、お風呂は外、洗濯場も外、トイレは汲み取り式、各部屋のドアは共用の廊下からの出入り。
うちは廊下の一番手前の部屋でした。
廊下の一番奥の部屋に、老夫婦が2人で住んでいて、お子さんもお孫さんも持たなかったそこのおばあさんは、私をとても可愛がってくれました。
母に怒られると、私は一目散に廊下を走って、そのおばあさんのところへ逃げて行ったものです。
決して余裕のある暮らしではない中、いつもりんごなどの果物、野菜をミキサーにかけてとても美味しいジュースを作ってくれた事を、よく覚えています。
ある時、おばあさんが部屋で亡くなりました。
「ガン」という病気がある事を、私はその時に初めて知ったのです。
私はそれ以来何故か、廊下が恐ろしくて行けなくなりました。別に何かが見えるとか、そんな事では全くなかったのですが、奥がどうしても怖くて行けないのです。
実はこの歳になるまで、その廊下の夢を時々見てきました。
記憶には無いけれど、何かしらあるんだろうなというのは想像に容易く、母の記憶が確かなうちに聞いておこうと最近になって思うようになり、年始で母に会う機会があった時にそうだと思い出して、聞いてみました。
そのおばあさんは胃がんに侵され、現在では考えられませんが、金銭的理由から入院を(遠回しに)断られ、末期癌の壮絶な苦しみと痛みを麻薬無しで自宅で耐えざるを得なかったそうです。
(その様子も母から聞きましたが、ここに書く事は控えます)
耐える、というのは言葉が違うかもしれません。耐えられるものではないからです。
癌性疼痛は、私の知る限り、麻薬無しに耐えられるような種類の痛みでは無いからです。
おばあさんにとってその痛みは、まさに死ぬ時まで続けられた拷問だったと思います。
母は、日に何度も様子を見に行きました。ですがおばあさんの様子を直接私に話した事は、記憶にある限りありません。
ただ、大人同士の話から、私はおばあさんの最期が近い事を悟ったようには思います。その当時の、純粋に違いなかったであろう子供の心には、感じるものが大きかった事でしょう。
それにしてもあの尋常でない怖さはそれだけではない、と感じていましたが、母から話を聞いた事で腑に落ちました。
末期の痛みや、呼吸困難もあったかも知れない、恐ろしい頭痛も倦怠感もあったかも知れない。緩和される事なく、そういった事に曝されるという想像を絶する苦しみ。
まさに地獄があのドアの向こうにあったのです。
私はその凄まじい苦しみのエネルギーを感じ取っていた。それを「怖い」という感情とともに自分の中へ取り込んでいた。
それから四十数年もの月日が経った先日、複雑な思いとともに、私はその時のエネルギーをやっと抜きました。
言葉では表現できないものがどんどん湧き上がり、涙無しにワークする事は出来ませんでした。
そして、抜いている時に感じたことがあります。
あのアパートは取り壊されてもうありません。だから、その時のエネルギーがこもった部屋はもうこの世にはありません。
でも、私の中にはまだあったということ。
このエネルギーは、長い間、本当に浄化されて解放される時を待っていたのかも知れないな、と。
だから何度も夢で出てきて、「まだここにいる(ある)よ」と教えてきたのかも知れません。
もしかしたらあの当時、長い長い時間を経た後に、私によって浄化されることがわかっていたのかも知れないな、と。
あくまでも想像に過ぎませんが、それほど見当違いな事でもないだろうと思います。
新年早々の深い出来事でした。