~~エネルギーデトックスワーク協会認定上級セラピスト・1dayセミナー講師 NAMIです~~
あくまで仮定の話で、例えば自分が死んで、告別式が開かれたとして、その席で参列者からどう言われたら「ああ、生きてきて良かったな」と思うのだろう?
…ということを、このところ考えていました。
『働き者だったね』
『人の嫌がることをしない人だったね』
『誠実な人だったね』
『真面目な人だったね』
『一生懸命な人だったね』
どれもが今の私に対しての評価ですが、どれも嬉しくない。
「こうありたい」と考えた時、経済的に裕福でありたいとか、キツい仕事をしなくてもいい生活がしたいとか、子供たちが幸せに暮らしているのを見たいとか、他にも色々と出てくる。
それらは全てその通りなんだけど、何か少し違う。いや、違わないんだけど、羽毛布団の上から痒いところを掻いているような感じがする。
でも、「自分が死んだ時に参列者からどう言われたら満足なのか」を考えた時、
【いつも穏やかに笑っていた人だったね】
と言われたいな(つまりそういう生き方をしていたということ)、とは思ったのです。
上に挙げた色々なことは、単に全て『それに通じること』に過ぎないんだなと。
実は、私は強度のHSPです。
幼い頃から生きづらいのは自覚していて、どうしてこんなに心が疲れるのかな、と思ってきたので、HSPという概念が出てきたばかりの頃、「ああ、そうだったのか」ととても腑に落ちました。
常に人の目を気にして、空気を読む。
おそらくは何でもない程度のことを猛烈に気にして、自分を律し、言いたいことを抑え込む。周りの期待に添える自分になろうと物凄い努力をする。
その性質は、この仕事をする上では役に立ったことも多かったです(他の人が気がつかない急変の予兆に気が付いたりなど)が、同時に気がつきすぎたり気を使い過ぎたり感じ過ぎたりと言ったものは、諸刃の剣でもありました。
心が、そしてやがては体が、クタクタになることが多かった。
出来ない自分に猛烈な劣等感と嫌悪感を感じ、もっと出来るようにならなければと自分を追い込んで、自分を追い詰めていく。
それが周囲には【頼れる人】【頑張り屋】【仕事の出来る人】と映るのか、何故か中学生の頃から何かにつけて『長』やその補佐役である『副』を任されることが多かった。
そんな器では無い事は自分が1番よくわかっているのに引き受けて(というか断れないというのが本当のところだった)、もっともっと頑張り、どんどん自分を追い込むんですね。
自己免疫疾患を持っている、つまり自分で自分(の細胞)を攻撃するというのも、私の場合は自分を追い込むという、その現れのような気すらします。(私の場合はそう感じる、ということで、他の人をとやかくいうものではありません)
私の口癖に、【ああ、ほっとしたいなあ】というのがあります。
きっとそれが本当の本音なのでしょう。
ほっとすることを渇望している。逆を言ったら、ほっと出来ないでいる。
じゃあほっとするってどういうことを言うの?
その各論的なことが、
経済力だったり、綺麗な景色を見ることだったり、安らぐ音楽を聴くことだったり、数少ない心を許せる人と過ごすことだったり、なのだなと。
それらは目標じゃなく、手段に過ぎないんだなと。
そしてほっと出来る日々を送った、穏やかな心で生きた、という結果が、上に書いた【いつも穏やかに笑っていた人だったね】になるのだろうなと。
続きます。
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