今週のお題「夏を振り返る」
去年の夏は思いもしなかった事が次々と起こった、今年の夏。
環境の激変。
20年以上勤めた職場との別れ。
20年以上住み慣れた住処との別れ。
→夥しいモノとの別れ
人との別れ。
終了したものも進行中のものもありますが。
本当に別ればかりの夏でした。
これほどに別ればかりの夏はきっともう無いのではないかと思うし、間違いなく生涯2度は無い夏だったと思います。
あるとしたら、それは自分がこの世を去る時だろうなと。
この現界のすべてのもの、全ての人との別れが自分が死ぬ時ですからね。
でも『変化』と見たら、これで終わりじゃないことがわかる。
多分まだ変わるでしょう。
その変化は、今起きている変化よりもおそらくもっと大きくなるでしょう。
今はその過程に必要な事なのだろうなと。
それにしても、変わるということはなんて怖いことだろうと思います。
それを身にしみて感じました。
過去に経験した変化は、一見キツイこともあったけど、今に比べたらなんて優しいものだったのだろうと。
でもそれをひとつひとつ積み重ねてきたからこその今なのだとわかるのです。
たとえそれが恐ろしく辛く寂しい悲しいものであっても。
ここまで受けて立たなければいけないのかとも思います。
回り始めたら止まらない渦があって、否応なく乗って行く。
そう、一見乗らされたようにも見えるけど、乗ることを自分が選んだ、ということです。
何も変わらなければ、何かが始まって怖いことは何もない。いつもと同じ事がいつまでも延々と繰り返されるだけです。
それはどれほどラクで安心か。(表向きは嫌だとか不平を言っていても)
でもそれは、「全てにおいて」同じような事が延々と繰り返されるという事です。
それをよしとするなら、自分の人生なのだから、それでいいのです。みんながみんな、変わらなければいけないわけじゃないのです。
変わらないことを選ぶ、という自由だってあるのです。
追記)
「変わらない範囲の中」での「変わる」は可能です。
例えば大昔の士農工商、同じ「商」であっても、非常に裕福な「豪商」もあれば日々の暮らしには何とか困らない程度の「商」もあったでしょう。
でもどんなに豊かであっても「商」は他の「士農工」にはなれなかった。そういうことです。
変わることもそのままでいることも、全て自分の自由。そして、全て自分の責任。
人に意見を求めたりするにしても、決断は自分がしないといけません。
変化には何らかの痛みが伴うものと、経験上確信しています。大きな決断であればあるほど、それに伴う不安と、それに伴う寂しさ、時に自分に対しての疑問も出てきます。
それでも。
この先に何があるのかをこの目で見てみたいと思うのです。
↓フリーメールとハンドルネームで大丈夫です